追悼 長嶋茂雄
戦後スポーツ界最大のスーパースター長嶋茂雄さんが6月3日逝去された。明るく輝いた巨星が墜ちた気持ちである。私は子供のころからアンチ巨人で大の阪神ファンであった。長嶋茂雄にはよく痛い目にあわされたものである。しかし不思議と嫌いではなかった。阪神の大エース村山実が1500奪三振は「長嶋さんから奪う」と宣言したら、長嶋茂雄も「バントしてでも三振はしない」と宣言して大いに盛り上がった。勿論、バントなどしないでフルスイングで緊張感のある対決場面であった。1500奪のあと2000奪三振も長嶋茂雄から挙げている。余談だが村山実の後のエースを継いだ江夏豊も、プロ野球シーズン最多奪三振を巨人軍もう一人の雄、王貞治から挙げている。とにかく長嶋茂雄は目立つ存在であった。日本の高度成長期と重なった時代背景が時代の寵児を生んだのだろう。球界の大エース金田正一とのデビュー対決は連続4三振と散々であったが、金田正一がその日のインタビューで勝ち誇るのではなく、新人長嶋茂雄の渾身のスイングに恐怖を覚えたそうである。次の対戦で長嶋茂雄は金田正一からホームランを打っている。長嶋茂雄の勝負強さを決定的に印象付けたのは、昭和34年初の天覧試合である。伝統の一戦、阪神との試合展開はONの初めてのアベックホームランなどがあり、シーソーゲームの同点9回裏に長嶋茂雄の劇的サヨナラホームランで決着。これを機に職業野球と言われ6大学野球などより下に見られていたプロ野球が、一気に人気スポーツの一番手に躍り出たのである。
野武士軍団西鉄の強打者、豊田泰光氏は「長嶋が入ってプロ野球がセピア色からカラーに変わった」と述べられている。こんなエピソードもある。1971~1973年ヤクルトアトムズを率いた昭和三大監督の一人三原修氏が監督時、自軍ヤクルトの選手が打者長嶋茂雄を野次った時に「君らがこの世界で飯が食べられるのは誰のお陰でだと思っているのだ!」と一喝した。昭和49年の引退セレモニーでの「我が巨人軍は永久に不滅です」の言葉にはアンチ巨人の私も思わずグッとこみ上げる感動的な名セリフであった。これを機に一流選手の引退セレモニーが数々行われたが、長嶋茂雄を超えるものはなかった。監督として決して超一流とは言えないが、地獄の伊東キャンプで若手鍛え上げ、その若手が主力選手となって後の巨人軍を支えた。1994年シーズン最終戦のリーグ優勝を懸けた中日ドラゴンズとの決戦を自ら「国民行事」と銘打って野球ファンを大いに盛り上げた。結果は巨人優勝である。1996年も一時首位チームと11.5ゲーム差もあったのに、「メイクドラマ」という造語を発し、奇跡の逆転優勝を果たしてしまった。とにかくファンを喜ばせることに関して、長嶋茂雄の右に出る者はいない。ミスター巨人からミスタープロ野球、ミスター○○は他球団にも存在するが、ミスターと言えば長嶋茂雄であり、それだけプロ野球に大きな貢献を果たした故の称号であろう。感動をありがとうございました。サヨウナラ長嶋茂雄。ミスター長嶋茂雄は野球ファンの心の中に永遠に不滅です。
独り言の好きな男より